つのせのこだわり
つのせは、古くから大阪の名物として知られる「おこし」の製造・販売に取り組んでおります。
シンプルながら上品な見栄えと独特の味わいは、時代を問わず親しまれ、お土産の代名詞として幅広い方々からご愛顧を賜っております。
おやつに、またはお茶菓子にと、大阪を代表する銘菓の誉れをいただいているつのせのおこしには、その名声にお応えするためのこだわりがあります。
【技】確かな技術による製造
「天下の台所」といわれる大阪の食文化において古くから名物とされてきた粟おこし。
全国に数あるメーカーが存在するなかで、大阪のおこしが名物といわれるその理由は、加工技術、生産技術の卓越さにあります。
一連の工程から作り出される粟おこしは、しっかりとした歯触りと上品な風味を持ち、それらは確かな技術に基づいた製造をおこなうつのせだからこそ成せるワザなのです。
【味】風味へのこだわり
全国有名百貨店、JRキヨスク、量販店、各名店街などで販売しております。
いつも親しまれる「おこし」をお客様にお届けするため、老舗としての伝統を保ちながらも、時代の流れと共に変わりゆく味覚や食感を追求し、常に斬新な試みを実践する先発メーカーとして、日々努めております。
バター、ミルクなど洋風の味覚を取り入れたり、現代人が好む食感に合わせて薄型のおこしを販売するなど、それぞれの商品が多くの方々よりご好評をいただいております。
つのせの歴史
長年にわたるつのせの歴史のなかで、どういった経緯で粟おこしづくりが始まったのか、実際どのように多くの方々に親しまれていたのかについて、ご紹介いたします。
はるか昔より誕生した当社の粟おこしが、誰にも親しまれる和菓子として在り続けてきた、その歩みをご覧ください。
また、つのせと二ッ井戸のつながりを通して、その名が加わるようになった由来をご紹介いたします。
つのせのはじまり
そもそも粟おこしが誕生したのは、1752年(宝暦2年)でした。
それまでのおこしは、手で握ったつくねのようなものや、竹筒に入れた形状しか ありませんでした。
それを当社の初代、津の国屋清兵衛(つのくにやせいべい)が、板状に延ばし 現在の粟おこしの形状を確立しました。
また、粟おこしと命名された由来は、お米(引割米)の小さな粒が、粟のように見えることから「粟のようなおこし」すなわち、「粟おこし」とされたことにあります。
絵:「守貞漫稿」(喜多川秀荘著・つのせ蔵)より天保~寛永頃の津の国屋の店構え。
「大阪道頓堀二ツ井戸西津の国屋清兵衛専ら之を製し売りて今世名物となり、各月毎日所要の黒糖を用ふること海内一とす。」
広がるお客様と名声
つのせの粟おこしが繁盛した様子は、昔の書物にも記されているほど。
喜田川守貞という絵師の著書「守貞漫稿」をはじめ、近松門左衛門の有名な浄瑠璃「生玉心中」や、山崎豊子の小説「のれん」にも書かれています。
また、国内の博覧会をはじめ海外からもご好評いただき、 これまでに内国勧業博覧会や各種菓子博覧会、パリ・ロンドンでの博覧会などで最高賞を受けました。
また、庶民のおやつだった粟おこしが大阪土産として広く知られるようになったのが昭和45年に開催された「日本万国博覧会」。
有名な太陽の塔の下に出店し、大阪のお土産として飛ぶように売れ、万博が開催されていた半年間、工場は連日24時間フル稼働の状態でした。
つのせと二ッ井戸(二ッ井戸の由来)
二ッ井戸とは、長方形の井桁の中央を石板で仕切ることにより形成された二つ並びの井戸をいいます。
つのせと二ッ井戸のつながりを通して、つのせの名に冠せられた由来をご紹介いたします。
仁政の鐘と二ッ井戸
徳川幕府3代将軍・家光は寛永11年(1634)大坂城に入って、大坂三郷の地子銀(固定資産税)免除を宣言しました。
当時の大坂三郷の地子銀は年間178貫934匁と言う巨額で、これが永久に免除されると言うので町民は大感激したそうです。
この恩恵に感謝し、それを忘れぬために時を知らせる釣鐘を作りました。
これが「仁政の鐘」です。
この「仁政の鐘」を鋳造する際に、使われた井戸水が二ッ井戸であると伝えられています。
当時、石を「四ッ組」にした井戸として珍しがられ、浪速名所のひとつとされていました。
右の版画「浪華名所獨案内」(なにわめいしょひとりあんない)は、当社と大阪城天守閣の2カ所にしか現存しない、大阪の名所が描かれた古地図です。天保年間(1830年~1844年)に友鳴松旭が描き、平野町通淀屋橋に店を持つ石川屋和助(書肆、本屋・出版社)が出版しました。
地図中央に「二ッ井戸」と「ツノセ」の文字があります。
二ッ井戸への想い
明治22年、この地域の区画整理がおこなわれ、二ッ井戸が埋設されることになりました。
そこで当時、つのせの五代目が埋設されることを惜しみ、井戸の側石の払い下げを受け、店頭に移したのです。
おこしの歴史
平安時代の初期に中国より「お菓子」が伝来した時に始まります。
当時、これらの輸入菓子は「唐菓子」と呼ばれ、このなかに(和名:おこし米)が含まれていました。
これこそがおこしの原形で、その後、長年に渡って日本人に合うよう改良されたのが、現在のおこしです。
粟おこしのはじまり
それまでのおこしは、手で握ったつくねのようなものや、竹筒に入れた形状のみでした。
しかも原材料は当時入手しやすかった粟や稗。
味にこだわった初代清兵衛は、原材料に米を用い、板状に延ばし、「粟おこし」と銘打って大々的に発売したのをきっかけに粟おこしは生まれたのです。
わざわざ米を砕いて、粟粒のように見せかけながらも、実は米を使っているという斬新なアイデアが人気に拍車をかけ、砂糖の消費量に至っては瀬戸内で随一であったとも言われております。
粟おこしと歴史の関係
粟おこしについては、様々な歴史的書物にその存在が記されています。
まず、原形となった??(おこしめ)の製法が和名抄「931年(承平年間)の百科事典」に書かれています。
また当時、粟おこしが食べられていたことを記述している書物に古今著聞集「1254年(建長6年)橘成季著」があり、製法については和名抄「931年頃(承平年間の百科事典)」、料理物語「1643年(寛永20年)」に記述が残されています。
また和漢三才図絵「1715年(正徳5年)刊、寺島良安編」では、現在の粟おこしと同じ原理で作られていたことが分かる内容が記載されています。
菅原道真と粟おこしの伝説
延喜元年(901年)藤原時平との政争に敗れた菅原道真公が九州大宰府への左遷の道すがら浪速の里、元高津の落月寺に立ち寄った時に、土地の者が、その御心情と御旅情を心からお慰めするため、当時のおこし米(現在の粟おこし)をおすすめしたといわれています。
道真公はその風味を深く賞味されて、梅鉢御紋入の衣服を土地の者に贈り、「今後は此の紋をおこしの目印として広く世に伝えよ」とおっしゃったとのこと。以後粟おこしには梅鉢の紋をつけるようになったといわれています。
新たなおこしづくり
つのせは、創業して以来、常に品質の向上と時代に合った商品開発に努めてまいりました。
当社の長い歴史のなかでも特に、幕末に落花生が輸入され人気が出るやいなや、それまでの板状の粟おこしを小切れにして一口サイズにし、原料も粳米から糯米に替え、落花生を入れて時代の味覚に合った新しいおこしを作り出しました。
以後も、時代による人々の嗜好によって、味や固さなどを微妙に変えてきたつのせの粟おこし。
味にうるさい浪速の人々が時代を経ても飽きずに食べ続けていただけるのは、常に庶民の味覚に目を向け、進化し続けてきた証であると受け止めております。
包装紙のデザインについて
当社の包装紙デザインは世界的版画家の棟方志功(むなかたしこう)が、かつて手がけたことがあります。
ピカソ、ミロをも圧倒する個性で描かれる世界観は、数多くの人々を引き付けてやみません。
そんな作者の持ち味が存分に活かされた包装紙デザインには「梅鉢の紋」が力強く描かれ、幅広く親しまれる作品になりました。
ここでは、棟方志功デザインによる包装紙をはじめとして、包み紙ひとつひとつにもこだわりを持ち続けてきたつのせデザインの一部をご紹介いたします。
著名な作家による包装紙
- 鹿目尚志デザインの包み紙
- 棟方志功デザインの包み紙